190104 五山ふたたび

何はともあれ、五山である。


年末に建長寺に行って以来、鎌倉五山文学の本体に早く触れたいと気を馳せつつ、準備運動を兼ねて正月のあいだ「バック・トゥ・ザ・フューチャー」3部作と、「ボヘミアン・ラプソディ」を観ておいた。ドクからは自分自身の信念を越えていく勇気を、フレディからは自分の生み出すものが多くの人が求める何か普遍的なものにつながると信じる勇気を受け取ったが、一方で五山に直接関係ありそうな準備運動もしておいた。庄司浅水の『写真にみる日本の本』で、懐かしい感じの小型版カラーブックスながら、日本の「本」すなわち開版の歴史を、語り部の時代から昭和まで通史で見せてくれる。

 

 

通史を書くというのは、とても難しい。客観的な重要事項だけを取り上げ、並べればよいように思われるが、取り上げる根拠をいかに表現するかが決定的なミソとなる。「文学・芸術学」で4世紀のミラノのアンブロシウス聖歌から20世紀のアルヴォ・ペルトまでのキリスト教教会音楽を「通史」で話しているが、毎年、自分は何を伝えたいのかしらと思いながら話している。


庄司氏の通史は、本の著者の精神に注目を当てるというより、出来上がった本がどのように人々に共有されていくか、すなわち「複製」され版摺りされたり印字されたりしていくかの歴史に焦点を当てている。


まず、奈良時代に国家プロジェクトとして仏典が写経されまくったことが、日本の最初の重大「複製」事件だった。その次の平安時代は、古今和歌集の和歌、更級日記・枕草子の日記文学、源氏物語の物語が流星のように登場するが、読み手の数としては、ごくわずかの人に読まれるに留まった。鎌倉時代に入り、かつて奈良時代に人間の手で大量に写経されていた仏典が、版木に文字をじかに彫る木版画の手法で複製印刷され、木版印刷本が生み出された。興福寺版・高野山版・泉涌寺版が出たのち、満を持して五山版が出る。この五山版は、庄司氏のまとめによると以下の点で画期的だった。

 

  1. 宋および元の最高の禅僧がもたらした、仏教のみならず広い意味での大陸新文化の享受
  2. 名目的には仏教関連の書物とされたが、内容的には宗教の枠内から大きくはみ出て、文芸(詩文)・史伝・教育・技術・医学の分野に至るまで禅僧が著した。
  3. 外形的には和本(袋とじ本)の完成であり、この綴じ方はこの後明治10年頃洋式製本術が導入されるまで600年間日本の「本」の形を決めてきた
  4. こうした形と内容をもつ本が、上記の木版を使った複製手法で、印刷・弘布された。

 

この五山版によって刷られた五山文学が、仏教という宗教を母胎にして、「大きくはみ出て」文芸・歴史・教育・技術・医学が現れたこと、そのハイブリッド性・越境性を引き起こした「場(トポス)」に惹かれる。(トポスとは、「何かを想い出す場」のことだ。)

 


複製技術に注目すると、次の画期点は、豊臣秀吉の文禄・慶長の役によって朝鮮の銅活字が日本に輸入されたことを契機に木活字が生み出され、本阿弥光悦らの嵯峨本を経て江戸の庶民文学・出版を準備することとなる。これは、奈良時代の写経以降五山文化を含めて日本の開版文化をずっと支えてきた仏教と別れ、独立して文学と出版が行われていくという画期なのだが(その点、ルターの登場によって、イタリアで最初に音楽がキリスト教から離れて独立して発展していったことを連想させる)、私は、その直前の五山(つまり、仏教から詩文学が生まれ、詩文学がまだ仏教に抱かれていた期間)に惹かれる。五山文学は、基本的に漢文の文学らしいのだが、それは、その時代以前に日本に伝来していた漢文学の系統ではなく、もっとも新しい宋・元の僧たちが直接日本に持ち込んだカルチャーにしてリテラチャー(にして仏教)であり、庄司氏の著作では省かれていたが、そうした文学僧たちが学びあう学舎という「場」があったらしいのだ。そうした「場」の直接の資料は残っていないにしろ、ネットで検索すると2010年代に急に五山文学の研究書が次々と出ている。

そんなわけで、1月4日、ようやく図書館が明けたので図書館に入った。しかし、困難は予想していた。漢文、読めないしな。。。玉村竹二という方が、1955年に『五山文学:大陸文化紹介者としての五山禅僧の活動』という本を出している。この方、後年『五山文学新集』全8巻(1967-77)を編集していて、経験上、こうした大仕事をされた方が最初に出したイントロダクションから入っていくのが一番良い。しかし市の図書館の自動書庫の調子が悪く、イントロダクションが借りれなかったので、こわごわ『五山文学新集』の第1巻を開いてみた。

 


1000ページ(第1巻だけで)全部漢詩漢文!!これを編集した20世紀人がいたことに畏敬を覚えつつ、これだけでは手も足も出ないので、次に岩波書店の『新日本古典文学大系 五山文学集』(入矢義高:校注、1990年)を開いてみた。1巻本だし、きっとエッセンスを多少は分かりやすく出してくれると期待しつつ。。。

 


と、これは書き下し文付き!これだけでこの世の言葉に近づいた気が大いにするものだ。有難い。しかし、書き下し文も、実はすでに意味が精確には取れない(大岡信が『日本の詩歌』で、古今和歌集の紀貫之の「仮名序」を現代語訳しているのを読んだ時、今まで読んできた現代語訳って何なのだろう、、、と思ってびっくりした。「今」の自分のセンス・ツールに、書き下し文のままでは全く直結せず、大岡氏の現代語訳だとものすごく直結することに、改めて衝撃を受けたのだった)。だが、五山は、現代語訳では出ていないので、ここから先は、助けを借りて、自分で行くのが良さそうだ。


そこで、まず漢和辞典を借りることとした。漢和辞典があれば、「浮き輪」の役割くらいは果たしてくれるだろう。それと、玉村氏のイントロダクションは入手できなかったので、2010年代に新しく出た五山文学の作品分析の研究書2冊と、東アジア文化交流史から五山を概観した本もあったので、それを間接的な助けとすることとした。

181230 建長寺

五山文化は、日本の文化史上の最大のミステリーポイントだ。


鎌倉時代の終わりから室町時代のはじめ、武家政権の交代と南北朝分裂と政治面での激動の時期をよそに、鎌倉では元から渡ってきた仏教僧と一遍・親鸞の仏教に飽きたらなかった僧たちがインターカルチュラル化学反応を起こし、まったく新しく学問と仏教を綜合した禅寺・禅林を造った。この僧たちが考える。仏の教えや慈悲・悲しみを人々に伝えるために、一遍や親鸞は「どうか仏様私の心をわかってください=南無阿弥陀仏」という念仏(これはキリスト教のkyrie eleisonとほぼ同じ意味だ)のキャッチフレーズを編み出し、これで広めるぞと作戦をしたが、自分たちはこれでは足りないと思う。これでは人が「考え」をめぐらせ・進ませ・整えることができない。かといって、旧態依然の仏典では固すぎる。そうだ!詩はどうか?詩で仏の教えや慈悲・悲しみを表現したらどうだろう?この僧たちは、こうして、仏教と詩を綜合し、詩人兼僧侶となった。それだけでなく、かれらの作品を木刷りで木版印刷し、本として普及させようとした。こうして、日本の書物史上最初の出版文化にして文学運動だった五山文化は、鎌倉の禅寺から生まれた。五山文化があったからこそ、日本人は本を読むようになり、江戸時代の爆発的な書物・書店・寺子屋文化の下地をつくることになる。そして、五山文化は、能・茶・白拍子の踊りとともに、室町時代が産み出した日本の真に独創的な黄金の四角形の一辺となる。


五山文化は、宗教的な考えを詩に託したという点で、「文学・芸術学」であり、本と印刷の発祥という点ですべての「本屋の始点」でもある。そして、「綜合(インテグレーション)」の素晴らしい歴史的事例だ。今日そのダイナミックさを伝える資料はほとんど残っていないという。このことは、ごく最近知った。2018年の最後に、どうしても五山文化の「場」に足を運んでおきたい、と突如思いたった僕は、奥さんと一緒に鎌倉・建長寺に向かったのである。

 

建長寺の雰囲気は、非常にすがすがしい。「いにしえの大学」という趣だった(大学と名打っているわけではない)。建長寺をはじめ、禅寺は別名「禅林」という。これは「学林」と同じ「林」の意味で、知識を林に見立て、あるいは知識を備える人の集まりを林に見立てる。本尊は地蔵菩薩だが、通常最も奥にある本尊のお堂が一番手前にあり、まず御本尊のお地蔵さんがお迎えくださり、奥に進んでいくと方丈があるという構造を取る。この奥が、かつては学問的な場所だったのではないかと想像した。方丈から見る北鎌倉の山がおごそかだった。


帰りに、北鎌倉にかつてあった蔵書票専門ギャラリー「青騎士」の近く、そこのオーナーさんに教えてもらったフランス料理屋「ゆかり」で夕食をとった。奥さんは、お地蔵菩薩のお堂で、なんだか「よく来たね。五山の詩を読みなさい」と言われたような気がしたという。どこへ導かれるのやら!
 

オーテモリ

大手町駅から東京駅に歩く途中の「オーテモリ」が私は好きです。

完全に都会の地下なんですが、不思議に、森の深奥にいるような錯覚を覚えます。

 

 

 

 

中世の学生のノート/暮らし/スコラ学

ストラスブールから南へ2マイル、セレスタという町がある。

 

その町には小さな図書館があって、手書きの文字が記された大きなノートが2冊飾られている。

一方が300ページ、もう一方が480ページ。

 

1477年から1501年にかけて、セレスタのラテン語学校に通っていた2人の学生のノートだ。

ひとりは、ギラウム・ギゼンハイム。

このノート以外に生涯については全く知られていない。

もうひとりは、ベラトゥス・レナヌス。

人文主義運動の担い手の一人で、のちにエラスムスの著作を編纂する人物だ。

 

中世末期の大学の学生というのは、どのような暮らしをしていたのだろう。

かれらは、旅行の安全、牢に入れられない保証、社会的義務の免除といった特権を与えられていた。

しかし、一方で学校に通うための課税、週単位の寄宿舎料を払う必要があり、

これを払えない学生は、「援助される手段を持っていない」と宣誓した上で、

なんらかの助成金にもとづく奨学金が支給される場合もあった。

 

貧窮にあえぐ学生は、15世紀、パリで18%、ウィーンで25%、ライプツィヒで19%いたという。

「特権」はありつつも、経済的に困窮した多くの学生が国内をうろつき、

施しや窃盗で辛うじて生き延びたり、なかには占い師や魔法使いとして生計を立てる者もあった。

 

中世末期の大学のカリキュラムは「スコラ学」と呼ばれるものだった。

もともとは、12世紀から13世紀に、

「思索とは綿密に策定された法則によって作り上げられていく」という考えにもとづき、

《信仰から生まれる宗教的な教え》と、

《人間の理性から生まれる多様な議論》を、調和させる手法として発展した。

 

「多様な意見の中に見られる調和」こそが、議論の目標だった。

 

これはけっこう驚くべき手法で、宗教的なものと知性的なものを調和させ、なおかつ一つの結論ではなく多様なものの調和を目指す手法だったといえる。

 

しかし、「スコラ学」は、「いろいろな考えを引き出す」手法ではなく、むしろ考えをアーカイブし保管する手法へと変貌していった。

「調和」でたどりついた議論が、「すべての反論を制した見解」として「正統な見解」として権威をもたされた。

その結果、スコラ学は、正統な見解を記した「注釈書」の暗記学問になりさがってしまった。

セレスタの2人の学生が勉強したのは、そういった時代から次の時代への変わり目だった。

 

(A. マングェル『読書の歴史 あるいは読者の歴史』より)

文字を読む術

大きな声で朗読したり、黙読したり、言葉を記憶したり

いわば頭の中に蔵書を作ってこれを持ち運ぶというのは、ほんとうに驚くべき能力です。

 

しかし、こうした能力を獲得する前に、

そもそも「文字を読む術」を修得しなければなりません。

 

ある時、クロード・レヴィ=ストロースは、ブラジルのナンビクワーラ・インディアンの社会を旅していました。

レヴィ=ストロースが文字を書く様子を見ていた滞在先の主人が、

ついに鉛筆と紙を持ち出し、彼が書いた文字を真似て

くねくねと線を引いたかと思うと、彼にこれを「読む」よう求めました。

ナンビクワーラ・インディアンたちは、自分たちが真似て書いたこの「くねくね」が、

レヴィ=ストロースにとっても「直接的に」理解されると思ったのです。

 ◀C. レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』

 

文字を読むために私たちが修得した方法は、

読み書きの能力(=情報を伝え、同時に知識や能力の序列化を促す能力)に関する社会が定めたルールを示すだけではありません。

方法いかんで、この能力を実際にどこまで駆使できるか、そのモードが定まり、リミットも定まるのです。

 

(A. マングェル『読書の歴史 あるいは読者の歴史』より)

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